桜の美しさ

また今年もうんざりする桜の季節がやってきた。

なぜ人々があんなにも桜を有難がるのか私にはわからない。色々な理由があるのだろう。奥ゆかしくて美しい小さなものが好きな多くの日本人にとって、桜はけっこう重要な心象風景となっているのかもしれない。

そんな私も数年前にニューヨークで桜の開花に遭った時は感想に困ってしまった。セントラルパークの桜並木の下をジョギングするニューヨーカーという図を目の当たりにした時、私も日本人なのだと痛感した。

先日、そごう美術館で開催されていた千住博先生(数年前まで大学の学長さんだったし今も授業をお持ちなので)の個展へ行ってきた。私は彼の描く夜桜の絵がとても好きなのだが、それは桜に関して私が長年持つイメージと合致するからかもしれない。

私にとって桜という花は、ずっと狂気とワンセットだ。

例えば坂口安吾「桜の森の満開の下」
数十年ぶりに再読してみたが、前回読んだ時よりも今のほうが素晴らし過ぎて震えあがった。これはもちろん作品が変化したのではなく、私自身が変化したからだ。ただでさえ山奥と美女という組み合わせは鉄板の幻想エロスだが、そこへ生首だの人形遊びだの満開の桜の森だの鬼だのと、これでもかと琴線に触れる要素がてんこ盛りだ。
舞台は鈴鹿峠というのもなんかいい。

かくして一つの美が成りたち、その美に彼が満たされている、それは疑る余地がない、個としては意味をもたない不完全かつ不可解な断片が集まることによって一つの物を完成する、その物を分解すれば無意味なる断片に帰する、それを彼は彼らしく一つの妙なる魔術として納得させられたのでした。

この部分は心の底から共感した。女の美は魔術だと主人公の山賊は考えている。この山賊は残忍な殺人者であり強盗でもあるのだが、桜の森の下を通るのは恐ろしいと直感でわかっているところがあり、意外とセンシティブなところが好感を持てる。自分の手で略奪した女によって少しずつ彼が狂っていく様もたまらない。

梶井基次郎「桜の樹の下には」
満開の桜の美しさに不安を覚える「俺」が、桜の樹の下にはひとつひとつ屍体が埋まっていると妄想する。

俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んでくる。

ただのひねくれ者のような気もするが、上村松園の作品を目の前にすると私は決まって「俺」と同じ気持ちになる。なぜなら彼女の作品は圧倒的な緊張感を観賞者に要求してくるからだ。確かに彼女の描く女の生え際は美しい。でもそれを眺めていると、そこから逃げ出したくなる。そこまでが私にとって松園の作品観賞時のお決まりだ。

映画では「異人たちとの夏」
この世の者ではなくなった美女が流すプッチーニのオペラと、上の梶井基次郎の作品の情景そのままな、桜の樹の下に死体が溢れている絵のインパクトが強い。あの絵、作者は誰なんだろう・・・私も欲しいのだが。

「八つ墓村」にも桜の名シーンがある。桜吹雪の中を村人を惨殺しに走る異様な出で立ちの山崎努・・・絵的に非常に美しい。

このように桜が作り上げる狂気を美と感じる私には、どうも「花見」というイベントがまったく理解出来ない。ライトアップも同じ。照らさずとも夜空とのコントラストでじゅうぶんだろう、と思う。わずかな風で揺れる桜を、あるいは強風で花びらが舞い散る様を、灯りのない山道で見たらどんなに美しかろう。

桜は日本画のモチーフとしても大定番だが、私は恐らく一生描かないだろう。