実母が施設へ引っ越したことで、家の中もあれこれ配置替えやら断捨離やらで遅れて来た大掃除という感じだったが、やっと落ち着いて来た。これまで自室ですべてを賄っていたが(寝る、着替える、化粧する、本を読む、絵を描く、勉強するなどなど)、ついにアトリエコーナーを設置。これによって、自室は寝るためと身支度の部屋になり、創作活動とは完全に切り離すことが出来た。

毎日描いている時は、寝ても覚めても目の前に作品があるので(夢にも出て来ることがある)、あんまり良いことじゃないよなあ、と思っていた。しかし物理的問題でアトリエ設置はハードルが高かったのだが、今回は勢いで作ってしまった。リビングの一角なので、大きなサイズもいけそうだ。自室ではベッドの上なども使って狭苦しく描いていた。

と、環境は改善されてこれでぐんぐん創作が進むぜ・・とはいかないところがダメ人間な私。精神的に疲労感があるとどうしてもダメ。プロの表現者は、音楽家でも美術家でも、「創作し続ける」ということが本当にすごいと思う。それを何十年とやっていらっしゃるのだもの。

私もまた秋の展覧会に向けてぼちぼち始めないといけないのだが・・・

アイデアの資料として、過去の思い出のクルマや好きなクルマや自分のクルマを並べてみた。だいたいネットからの拾いものだけど、おおよそのイメージは浮かぶ。だけど、こうしてまじまじ見ると、変化に乏しいような気が。(ルーテシア4、やっぱり見た目のバランスが秀逸過ぎる)

最近、「好みってやっぱり何よりも強いんだ」と実感したことがあった。
例えば、恋人。過去を鑑みても、外見が好みの相手は他のことが多少合わなくてもなんか許せた笑。でも、外見以外の理由で付き合った人は、その理由がなくなると途端に色褪せるし、欠点だらけに見える。外見が好みの相手は、その後別れたとしても、ずっと「理想のタイプ」として心に残る。何なら時を経て絵に登場したりする。私の場合は、若い時に結婚した元夫がまさにそうなのだが、今でも若い頃の写真を見ると、カッコ良すぎて涙が出る笑。最後は「自分の好み」。

ということを考えてみると、クルマに対しても同じことが言えるかもしれない。私は未だに赤いクルマに目が行くし、「速そうなポテンシャルを持っていそうな」雰囲気のクルマに惹かれる。けれども、あまり個性的なのには惹かれないし、スパルタンなレースマシンに惹かれるわけでもない。フェラーリだってカリフォルニアが一番カッコいいと思っているし、奇抜な見た目は苦手。

ふと周りを見回してみると、日常生活も無意識のうちに「好み」のものに囲まれている。価格的制約や物理的制約はあれど、その中でも自分を心地良くするには必要なことだ。

ちなみに俳優さんなどで理想の好みの顔をしているのは、「踊る大捜査線」の頃の柳葉敏郎!ギバちゃんの顔はドンピシャで好み。中学のときに好きだった男の子は、さらに若い一世風靡セピア時代のギバちゃんにそっくりだったので、何十年も好みは変わってないのだな、と思う。

シュッとしたコワモテが好きなんだな。若いギバちゃんのこの悪魔的カッコ良さよ・・・

自分が今より世界を知らない頃に出逢った「好きな物」って、多分死ぬまで引きずるんじゃないか。そんな気がしてきた。だから、クルマも好みを並べれば同じようなタイプになるのは、自然なことなのかも?