クルマで巡る『無言館』

私にとって美術がまだ「学ぶもの」ではなく、ただ鑑賞するだけだった時代から数えても、国内外で多くの美術館、展覧会へ足を運んで来た。本物を見に、あるいは好きな作家の表現を学びに。それらの作品にいざ対峙するとしばし呆然としてしまう。そして興奮、魂の震えがやって来る。ありふれた言葉で言えば「感動」というやつだ。
しかし、美術館にてこみ上げる嗚咽を抑えきれなかった経験はこれまで無かった。絵の前で声を出して泣いたのは初めてだ。

長野県上田市に静かに存在する「無言館」。

多くの人にこの美術館を知って欲しいのと同時に、自分の中だけにそっとしまっておきたい美術館でもある。そして、これまで訪れたどの美術館より衝撃を受けた美術館だ。

そもそも私がこの美術館の存在を知ったのはつい最近で、来年度に取り組む卒業制作は自画像を描こうと思い立った(正確には天の啓示を得た)ため、画家の自画像関連の書籍や記事をリサーチしている時だった。少しでも制作の参考になれば、という気持ちで訪れたのだが、入館して1枚目の作品を見た瞬間から「これは参考になど到底出来ない絵たちだ」と感じた。

この小さな美術館には、美術を学んでいた学生や、卒業してアーティストへの一歩を踏み出したばかりの若者の作品が並ぶ。その多くが東京美術学校(現・東京藝術大学)を中心とする学生、卒業生で、全員が戦死している。日本から遠く離れた異国の地で。または日本国内で爆撃されて。そんな彼らが遺した作品を展示してある美術館だ。

静かな丘を登っていくと、

とてもシンプルな作りの建物が目の前に現れる。私は一度訪れた後、周囲を散策した後に再び訪れたが、それでもドアを開けるのにものすごく勇気が必要だった。

彼らの作品と対峙するのはとても辛い。特に自画像や家族を描いたものは容赦ない。こちらを見つめる若者の瞳。幸福感の溢れる家族や恋人の姿。出征前日に写生した故郷の風景。帰ってきたら続きを描くと言ったまま、それが叶わなかった描きかけの絵。

これらの作品を見て、「戦争反対。こんな悲劇を2度と繰り返してはならない」と片付けることはとても簡単だ。でも、私はそう思わなかった。自分が遅ればせながら彼らと同じように美術を志す者となった今、彼らの作品が生(なま)であり続ける理由を考えると個人的な感情に行き着く。どんな思いで、どんな希望あるいは絶望を胸に、筆やペンを動かしていたのか。それを目の前の作品の色彩や筆致から想像しようとすればするほど、涙が止まらない。

これは私がぐずぐずとマスクの中で鼻水の大洪水になった作品だ。


東京美術学校日本画科の学生であった太田章さんが、当時18歳の妹さんを描いた作品。4つ違いの妹さんを大変可愛がっていたそうで、その通り画家の優しい眼差しを感じることが出来る。彼はこの絵を残して満洲で戦病死した。享年23。
妹さんは現在80歳を超えている。永遠に若いままの兄の面影を胸に秘めたまま、この絵と共に彼女が生きた時間の重さとは、一体どれほどのものだったのか。

彼らの自画像も容赦ない。近い将来の自らの行き先を知ってか知らずか、こちらに向けられた視線からは「お前はどうやって今を生きている?」と問いただされているようで、思わず下を向いてしまう。

館内は撮影禁止なので、購入した画集から

私にはこんな自画像など一生描けない。


こちらは第二展示館「傷ついた画布のドーム」と名付けられた建物で、内部の天井いっぱいに画学生の描いたデッサンが貼られている。現在の学生と何ら変わりない、石膏デッサンやモデルのクロッキーなどを見上げると、また嗚咽を止められない。彼らは当時の日本の美術エリートたちなので抜群に上手いのは当たり前としても、きっともっともっとたくさん描きたかったに違いない、と思うと今の私は一体何をやってるんだ。

 

「絵筆のベンチ」
絵筆を置いて武器を持ち、戦地に赴いて行った絵描きの卵たち。きっと芸術家を志したものは皆そうだったのだろう。音楽家であったら楽器を置いて武器を持った。

 

部屋に飾るための絵葉書と、画集を購入した。彼らは生きた証をこうして作品に遺すことが出来た。しかし、何も遺せないまま死んでいった若者たちも大勢いる。だけど、彼らの作品は、同時に死んでいったすべての若者たちの作品でもあると思った。なぜなら、みんな誰かの息子であり、誰かの兄や弟であり、誰かの恋人や夫だったのだから。

 

美術作品は、本物を見るとその圧倒的なエネルギーを受けることになって疲労困憊する。美術展に行ったことのある人ならわかると思う。しかし今回の鑑賞はそれを遥かに超越した経験だった。打ちのめされた、と言ってもいい。前向きに「さあ描こう」と思えるまでにはもう少し時間が必要だ。でも、素晴らしい作品を見た、という満足感は確かに満たされている。

行きは圏央道→関越道→上信越道で向かい、帰りは中央道→圏央道を利用した。近隣の施設や風景も素敵なのでドライブの目的地に是非お薦めしたい気持ちと、なかなか気楽に行ける目的地ではないような気がするのと、半々だ。

 

私は、また行くと思う。

来週は藝大の美術館で自画像をたくさん見て来ようと思う。彼らにまた会えるかもしれないから。

「クルマで巡る『無言館』」に2件のコメントがあります
  1. 無言館には、私も十数年前に訪ね、衝撃を受けました。展示されている戦没画学生の一人に新潟出身の金子孝信という人がいます。東京美術学校を洋画科を首席で卒業後、中国で戦死されました。
    金子の作品は、無言館と東京藝大等に数作が残されているだけだったのですが、近年、ご実家から何点か発見されました。大変素晴らしい作品で、2014年に新潟市美術館で展覧会が開かれています。そのとき、無言館の窪島誠一郎さんが講演されています。
    その時の展示作品は、新潟市の潟東樋口記念美術館で、ほぼいつでも見るのことができます。北陸自動車道の巻潟東インターからすぐです。小さな旧潟東村の美術館(今は新潟市立)です。なお、ここは赤塚不二夫の出身地で、赤塚のイラストなどもあります。また、日本画家の尾竹竹坡(おたけちくは)ゆかりの地で、かなりの作品があります。尾竹については、国立近代美術館を検索してみてください。未来坡?のような素晴らしい掛け軸が見られます。
    ご参考までに。

    1. なんと!無言館に行かれた方がここに!感動で打ち震えています・・・
      衝撃受けますよ、あそこは。大好きな美術館のひとつになりました。
      金子孝信さん、手元の画集で確認しました。そこに、
      「ぼくは天地発祥のもとである天ノ岩戸に帰ってゆくよ」と告げて戦地に発った。
      とあります。
      明るく洗練された画風が印象的。26歳で戦死されたのですね・・・新潟にも行かなければ。
      戦没画学生の作品がもっと世に出るといいのですが、ご遺族のご意向もあるでしょうし、
      そう簡単ではないのでしょう。「国の美術館だったら出さなかった」というご遺族も
      いらしたようですし。重い言葉です。
      ですから無言館は本当に素晴らしい文化施設だと思いました。ちょっと感情が溢れ過ぎてしまって
      辛い場所でもありますが。

      尾竹竹坡、ご本人がまずダンディです♪ 国立近代美術館所蔵の掛け軸は、
      本物を是非見てみたいと思います。日本画の掛け軸としては、ああいったモティーフはとても珍しいですね。
      日本画なのにシュールレアリスムのような、不思議な感じを受けます。間近で見たらまた印象が変わるかも。

      新潟はつくづく文化都市ですね!

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