BLOG 語学は要・情熱

こんにちは。

外国へ旅行した時に(非英語圏)、その場しのぎのインチキ現地語で現地の方と意思の疎通が成功すると、これ以上はない喜びを感じます。時にはそれを軽く飛び越えて、「想像」でコミュニケートすることもあります。例えば、

ある時、北京の紫禁城の生垣に腰掛けて、紫禁城について書かれた新書を読んでいました。すると、隣に中国人観光客らしきおばちゃんが腰を降ろし、私の呼んでいる本をじっと見つめています。そして私に向かって何か一言放ったのです。「どこの人?」と訊かれたような気がして「リィベンレン(日本人)」と試しに答えてみたところ、そのおばさんは「アー」と大きく頷くではないですか。えっ、通じた?と思って嬉しくなりました。中国ではタクシーやレストランでも私のインチキ語を炸裂させて相手とコミュニケーションする楽しみがあります。ホテルのスタッフは当然英語が堪能ですが、市井の人々はそうではないですから、こちらから歩み寄らないと。筆談は最後の手段ですが、あちらは簡体字ですからね。

とにかく、意思の疎通が出来る喜びは何にも代え難いものがある。

そんな私でも、これまでいくつかの言語に取り組み、挫折してきました。挫折した原因は、おそらく「必要に迫られなかった」からだと思います。現地に住むと速やかに言語習得出来るのは必要に迫られるから、という理由が大きいのではないでしょうか。私も渡米後1週間で英語で夢を見るようになりました。そこまでにならなければ自分の中に入って来ない。必要に迫られるとはつまり、相手に何かを伝えたい、伝えなければならない、と強く思うことです。

旅行の前には飛行機の中で現地語の主要単語を叩き込むだけ。すぐに必要に迫られるから頭も必死でインプットしようとします。効率いいんですよね。私の語学学習の基礎となるものは、あくまでも意思の疎通。相手がいなければ始まらない。だから、部屋の中でテキストと向き合う学習方法は合わないわけです。よく、「外国語を習得したければ、その言葉を母国語とする恋人を作れ」と言いますが、わりと正論だと思います。ただし、2人が話せる共通の第3言語があったりすると、楽だからそっちを使ってしまいがちなのですが。

そんな私ですが、現在「ことばは変わる はじめての比較言語学」(黒田龍之助著 白水社)という本を読んでいます。これがすごく面白くて。芸術を学ばなかったら、こっちを学んでみたかったかも、と思えたくらいです。特に「ピジン」。異なる言語の人同士が意思疎通する必要があるために、その場凌ぎで新しい言語を作ってコミュニケートする状態のことを言うそうですが、まったく新しい言語というわけではなく、どちらか寄りの音素であったり、単語であったりもするわけです。大事なのは音や文法ではなく、やっぱり「伝えたい、伝えなければならない」という情熱。そうそう、この情熱がなければコミュニケーションなんてしようとは思いません。
この本は欧米の言語が中心なのですが、漢文と日本(語)の関係をわかりやすく説明してくれる「漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか?」(加藤徹著 光文社)もなかなか面白い本でした。

どうにかして伝えたい!という気持ちは、大抵の人はわかってくれます。だから、一生懸命聞き取ってくれますし、理解しようとしてくれます。逆の立場だったらよくわかりますね。たどたどしい日本語を一生懸命使って道を訊ねてくる外国人と、当たり前のように英語で普通に訊ねてくる外国人がいたら、前者のほうに優しくしてあげたくなりませんか。だから私も非英語圏では間違っても市井の人々に「Can you speak English?」などと聞かないように心がけています。アジアでもヨーロッパでも。

「学問としての言語」に触れるとたくさんの発見があり、もう一度あの言語をやってみようかなぁ、とか、本棚に埋もれているあの語学本を引っ張り出そうかなぁ、などとやる気スイッチが入ります。そしてきっとまた途中で挫折するところまでがワンクールではあるのですが。