クルマで巡らない澤田知子「狐の嫁いり」展

私の大好きな常田大希率いるKing Gnuは『朝目覚めたら どっかの誰かに なってやしないかな なれやしないよな 聞き流してくれ』(白日)と歌った。人は恐らく誰もが、多かれ少なかれ「自分が嫌になる理由」を抱えて生きている、と思う。もちろん私もそうだ。そのコンプレックスの根源は消えなくとも、意識しないで生きることは可能で、その手っ取り早い方法は「他人と比較することをやめる」ということだと思う。私は中学時代にこの考えに辿り着き、その後は我が道を歩んできた。ゆえにコンプレックスはまったく消えてはいないが意識せずに生きて来られた。

さて今回訪れたのは写真作家、澤田知子氏の個展だ。自画像やセルフポートレイトの展覧会と聞けば駆け付ける私が見逃すはずはない。前回、森山大道を観た東京都写真美術館での開催。ちなみに来るたびに寂れている恵比寿ガーデンプレイスは、最早もの悲しさを通り越して廃墟のようだった。

広場で子供を遊ばせる家族か、犬の散歩人くらいしかいない。

私もここに来るのは写真美術館を訪れる時だけだ。

3階では日本を代表する山岳写真家、白川義員氏のダイナミックな個展が開催中であった。大迫力の山岳写真は、登山家の皆さんや風景写真愛好家の方にはたまらないだろう。しかし私はあまり関心がなく、やはりこちらがメインだ。

素敵なタイトル。

澤田知子氏は若い頃の自身の容姿に対する思いを発端とし、人間の内面と外見の関係性をテーマに創作している作家さんだ。彼女がもしとびきりの外見的美人であったなら、これらの作品は生まれなかったのかもしれない。

被写体はすべて彼女自身であり、証明写真ボックスを使用したシリーズが代表作とされる。正直、すべてにおいて圧巻だった。

ID400より

MASQUERADEより

Reflectionより

Recruitより

化粧や髪型、あるいはダイエットをしたり服を変えるだけで人間は容易く変身出来る。一方で、学校の制服や上記のリクルートスーツと言われる画一的なスタイルなど、あえて他人と同化する文化も根強い。それに、変わると言ってもあくまでも外見は、だ。じゃあ中身はどうなのか。外見に引っ張られて変化することはある。でもそれは「本当の自分」ではないのではないか。しかし、そもそも「本当の自分」ってどこにいるの?

私たちは、一人でいる時には、いつも同じ、首尾一貫した自分が考えごとをしていると、これまた思い込んでいる。しかし実のところ、様々な分人を入れ替わり立ち替わり生きながら考えごとをしているはずである。無色透明な、誰の影響も被っていない「本当の自分」という存在を、ここでも捏造してはならない。

平野啓一郎著『私とは何か -「個人」から「分人」へ-』より

作品を眺めているうちに、分人主義という概念を思い出した。会社にいる自分も、絵を描いている自分も、ピアノを弾いている自分も、友達と喋っている自分も、クルマを運転しながら毒づいたりしている自分も、面倒くさがりで出不精な自分も、全部そのひとつひとつが自分自身であると考えれば、「自分探し」など必要ない。

「全部、私です」と言い切れる人は案外少ないのかもしれないが、少なくとも澤田氏の作品からはそれをビシバシ感じてとても気持ち良かった。そして、変な社会的メッセージに振られることもなく、個人的な部分が残されていることにも好感を持った。

メイクや服や、そういった「鎧」を脱いだ時に現れるのが「真の姿」であるとは限らない。鎧を纏った姿が真実かもしれない。「ありのままで」という言葉は便利なようでかなり胡散臭いと個人的には思っている。日本人は特に自然の状態を美とする伝統があるので、何も手を入れないことが素晴らしいと無意識に思うのかもしれない。私が「これまでやっていなくて後悔していること」のひとつに刺青があるが、私の若い時代にはピアスでさえ理解されなかった。ピアスは自分で開けられるので早い時期からやっていたが、「大切な体に穴を開けるなんて」とか平気で言われたもんだ。いやいや、大切かどうかは私の体なんで私が決めますけど。

そういう過去の窮屈さまで思い出されてきて、最後はちょっと泣きそうになりながら会場を後にした。何千人もの澤田知子の視線を浴びながら「私は誰」と自問する哲学的な空間でもあった。濃い。

アメリカの写真家シンディ・シャーマンは、変装・コスプレしたセルフポートレイトで有名。彼女は映画や架空の物語の中のヒロインに変貌し、「大衆に消費されてゆく女」をテーマとしてメッセージを発信してきた。セルフポートレイトや自画像は女性作家が多いような印象だけれど、女性は古今東西、外見的要素で判断されることが多いからかもしれない。古今東西、女性を描いた作品のほとんどが男性画家によるものだし。

知人が「自画像を描く人って自分に自信がある人というイメージ」と言っていたが、これは誤りだ。もちろん時代を遡ればデューラー様みたいな俺様感にあふれた自画像を描いた人もいるが、近現代においてはそうとは言えない。だから、画家の自画像が好きなのかも。自身を通して何を伝えたかったのか。鑑賞者にどう見られたかったのか。なぜ自画像なのか。作品の前でそれらを考える時間は楽しい。

さて私の場合はどうなるのか。