欲しいパーツは何ですか

熱にうかされたいために読書する夏

本格的に暑くなってくると、必ず読みたくなる本というものがあります。花房観音さんの書く京都の物語もそのひとつで、今年はすでに2度も京都へ出かけたものだから余計に。

彼女の作品の読後に感じるのは、居心地の悪い説得力。女という生き物の汚い部分とそうじゃない部分を「女ってやつはねぇ・・・」とまるで自分が女じゃないみたいに感じてため息をついてしまう。暑さにうだるようになるとついつい表紙を開きたくなる、そんな本。官能小説とも言われていますが、私はそうでもないと思います。

今夏に読んだもので印象深いのは「片腕の恋人」という短編で、川端康成「片腕」がベースになった狂気の愛の物語なのですが、じわっと泣きました。

パーツがあれば寂しくない

主人公の女のモノローグで物語は進みます。古今東西、「惚れ抜いた男」を殺す女がヒロインとして好きです。心中じゃだめ。女は生きてないと。惚れた男の体の一部を宝物のように後生大事に愛でるというのは世間の尺から見れば立派に変態ですが、わかる人にはわかる。ただ、私たちは現実には行動には移さないゆえに、物語の中の女に感情移入するのでしょう。

この物語の主人公である「私」は、「あなた」の左腕に執着しています。優しく、力強く、そして何より「私」を悦ばせる左腕。本体の「あなた」は交わっても朝まで一緒にいることはなく家へと戻ります。でも左腕だけがあればずっと一緒にいてくれる。左腕があれば本体がなくても「私」は幸せなのです。そんな「私」に「あなた」は最後の贈り物として、喜んで左腕を差し出します。

惚れた男の体の一部を愛でる、と言えば思い出すのは阿部定事件をもとにした「愛のコリーダ」ですが、吉つぁんも首を絞められながら「おめえの好きにしな」と定の行動を受容します。そこに私の泣きポイントがあるように感じます。吉つぁんは戦争の足音が聞こえて男たちが軍隊へ駆り出される中、自堕落に女と寝てばかり。この物語の「あなた」は誰にも救えない深い深い孤独を背負いながら生きていた。女からすれば、そこから解放してあげることは彼らを救うことでもあり、究極の自分勝手な愛情を満足させるとも言えましょう。男のほうも厭世観を持っていなければ成立しないんです。

女にとって「惚れた男の何かを身につけていたい」と思うのは特別なことではありません。体の一部じゃなくとも、好きな男の匂いのついたシャツを抱きしめてクンクンした経験のある女は少なくないはず。私はずっと昔、相手の残していった吸い殻を捨てられず、しばらくそのままにして置いておいたことがありました。その男は海外に飛んでっちゃったんです。出発の朝、私の部屋で吸った煙草の吸い殻でした。今こうして言葉にすると変態っぽいですが、実体はもう手の届かないところへ消えてしまったのだから、それに代わるものをせめてそばに、と思う気持ちはそう変態でもない感情だと思うのですが。

誰にでも「パーツ」がある

別に恋などしていなくとも、誰か一個人を観察した時、その人全体を表す、あるいは思い出させる「パーツ」が必ず何かあると思います。必ずしも体の一部である必要はなく、例えば「青いクルマを見るたびにあの人を思い出す」「○○の時計を見るとあの子の顔が浮かぶ」とか。いいことばかりじゃありません。「○○を見るとあいつを思い出してムカついてくる!」もあります。

 

 

体の一部の場合は見る人のフェチ度が影響してくるとは思いますけれど、そういう時って全体の完成品よりそのパーツだけがいい!!って思いませんか?私はそう思うことが多いです。だから、こういう物語に泣けてくるんだと。ちなみに私は強度の手フェチなので、男でも女でも、まず最初に「手」に目がいきます。手は口以上にモノを言う。そんな風に感じます。

花房さんの著作は、日本画家の池永康晟さんの作品が表紙に使われていたのが手にとったキッカケでした。中身は表紙以上に艶かしくて生臭い、そして悲しく、時には怪談以上に恐ろしい。女性にはお薦めです。