美しき孤高のモンスター、墨

実技系の授業の最後はいつも講評に当てられる。全員の作品を掲示し、先生が講評していくものだ。私はこの時間が結構好きで、いつも楽しみにしている。もちろん、自分の作品の拙さにガッカリしたりもするのだが、特にデッサン系の授業の講評では毎回感嘆することがある。

全員が同じものを見て描いているのに、1枚1枚すべて違う。

それって至極当然のことなのではあるが、私の究極の疑問である「私の愛車は赤いが、あなたにも赤く見えますか?」ということに繋がるのだ。

私の愛車を見て「青い」という人もいるかもしれないが、恐らく大多数の人が「赤い」と言うだろう。けれども、その人にとっての「赤」と私にとっての「赤」は必ず違う。例えば現行ルーテシアの赤はルージュ・ド・フランスという色名がついているが、私はこの色が赤には見えない。実車を見たらむしろ紫に感じた。なぜなら私にとって単純に「赤」とは、愛車のルージュ・フラムが基準だからだ。私の愛車を見て「太陽みたいな赤ですね」と言った人もいた。きっとその人は真っ赤な太陽を見たことがあるのだろう。記憶の色と私の愛車が結び付いた例だ。そこがとても面白いなあと。

赤信号をみんな赤信号だと言うけれども、それが本当に赤いと誰がどうやって証明出来ると言うのだろう。それを突き詰めて行けばたどり着く先は哲学になる。

つまり何が言いたいのかと言うと、何であれ「表現する」ということは、その人の視認感覚、それ以外の感覚、経験、性格や世界観、生き様まで出るのだということ。絵だけではない。音楽も言葉もクルマの運転だってそうだ。だから、面白い。

 

久々に小説本を読んでむせび泣いた。

家族を突然失い、喪失感の中で生きる若い主人公が、水墨画を通して生きる力を取り戻して行くという物語なのであるが、先週末に水墨画の授業を受けた私にとっては涙なしには読めなかった。ちなみに上の画像は授業時に先生が描いてくださったお手本の1枚。物語の中にも出てくる蘭である。

今回の授業では大変有名な中国ご出身の先生と、そのお弟子さん方の指導を受けることが出来た。「美術に、正しいはないんだよ」という言葉がとても印象に残っている。「もっとも重要なことは自由にやるということ、次に好きかどうか、そして3つめに技術です」と先生は仰るが、初心者である私たちは順番が逆だ。どうしても最初に技術を考えてしまう。そして、自由にやるというのが一番難しい。

物語の中で、師匠が主人公に問いかける「心の中に宇宙はないのか?」という言葉。それを読んでなぜか泣いてしまった私がここにいる。この本、授業を受ける前に読みたかった。読んだところで上手く描けるわけがないのだが、少なくとも心構えは違っていたはずだ。お手本の線をトレースすることだけに夢中になり、自分が何を描いているのかもわからなくなった。本書にも出てくる「四君子(竹、蘭、梅、菊)」を描く授業だったのであるが、それらが命あるものだということなどこれっぽっちも考えることがなかった。反省しきりである。

水墨に限らず、どんな絵や作品でも、真剣に向き合って鑑賞すると想像以上に疲労するのは、そして想像以上に感動するのは、それを創ったのが人間だからだと私は思っている。プロや素人、上手下手はほとんど関係ない。創った人の目を通して、私たちも創り手と同じものを見ている。そして古今東西どの絵にも「心の中の宇宙」が存在していると感じる。それを自分と同じ波長みたいなものでまともに食らった時、疲労と共に感情を揺さぶられるのかもしれない。そんな絵が、確かにあるのだ、ごくたまに。「何が」描かれているのかよりも、「なぜ」が気になる作品が。思わず近寄って運筆の後を追いたくなるような作品が。

授業のあとの講評が楽しいのも、この「心の中の宇宙」がそれぞれの作品に垣間見えるからかもしれない。もちろん学生が必死で描いたものなので宇宙ほど壮大ではなくとも、人間が人間たる所以みたいなものが見えて面白い。

ところで・・・これまで経験してきた画材の中で、墨はダントツに手強い。水墨の授業を受けることで、墨に対する恐怖心が少しは克服出来るかと目論んでいたが、はっきり言って逆効果しかなかった。それどころか、墨は生きているとさえ思った。自分の描く拙い1本の線ですら、自分の意思とは無関係に生きているように感じる。こんなモンスター、私の手には負えない!そう思った途端、泣きたくなった。

一方で先生が描いてくださったお手本のあまりの美しさに目眩がする。先生の操る穂先によってわずか数秒で紙の上に現れた花や草の美しさったら、ない。色が見え、風が見える。匂いまで漂ってきそうだ。モノトーンなのに・・・。水墨は塗るのではなく、描く。そして、西洋画、日本画、という括りをするとしたら水墨は中国画である。つまり中国の長い歴史の中で紡がれてきたウン千年分の美意識の賜物なのだ・・・それを恐れ多くも画歴たった数年の私たちが模倣するなど笑止千万。色々な意味で私は疲れ果てた。元気ドリンクを飲んだがそれも虚しく、翌週まで疲れをひきずった。

授業が終わった頃には、「水墨は無理かも・・・」とショゲていた私であったが、帰宅して届いていたこの本を読んだら、なぜかまた描いてみたくなった。そして、「墨は日本文化の、東アジア文化の柱ですよ」という先生のお言葉を思い出し、筆と硯を丁寧に洗った。