世界は創造されていく

先日、クルマ友達が研修で横浜に滞在ということで、一緒に食事をしていた時のこと。

「ルーテシアに乗っていなければ、今こうしてないよね」って話になりました。つまり、このクルマに出会ってなければ出会うことのなかった人々がいます。クルマとの出会いは縁だと思っていますが、その先に繋がる人との出会いもまた縁。

もし私が「どうせ通勤に使う足だから何でもいいや」でクルマを買っていたら、新しい世界は知らないままでした。実際に以前はカローラフィールダーを所有していましたが、別に新しい世界が広がったわけでもなく、新しい友人が出来たわけでもありません。ルーテシアというクルマを手にして初めて足を踏み入れた世界があります。

同じように、今更にして大学で学んでいる私にとって、大学での友人、学んだ知識や発見、習得する技術などもまた新しい世界です。

何かを選択するタイミングによってこれほどまでに自分の目前に造りあげられる世界が変わるものかと、若い頃以上に驚くことがあります。今のように様々な扉が開け放たれていることが嬉しくもあり、残された人生の時間を思うともどかしくもあります。

死ぬまでにあと何台、惚れるクルマに巡り会えるのだろうか。
自分が本当に描いてみたいものをいつか描けるのだろうか。
幻想即興曲は死ぬまでに弾けるようになるのだろうか。
サントリーニ島やマラケシュに行くことが出来るのだろうか。

世界が広がるきっかけは日常の中のあちこちに潜んでいるのだなぁと。音楽や美術もそうですね。ふとラジオから流れてきた曲にハマることもありますし、本やネットで偶然見た絵にひどく惹かれることもあります。それが自分の世界を新しく造っていく可能性はじゅうぶんにあります。出会わなかった人と出会う可能性もあれば、行かなかった場所へ行くことになることだってあります。

ルーテシアだって、たまたま雑誌広告で目に入った、というのが出会いです。もしそれを読んでいなければ今もルーテシアを知らないままだった可能性が高い。

人生の終わりまで、そういう体験を何度出来るのか。

もっと早くやればよかった、と思うことも沢山ありますが、あとどれくらい新しい何かに出会えるのかを考えていたほうが間違いなく幸せです。