人類学では「愛は4年で終わる」と言われているそうです。オスとメスが出会い、交尾し、出産、育児までが4年というサイクルという観点からのようです。もちろん、これが誰もにあてはまるかどうかは「人による」としか。

そもそも人間以外の生物は「愛」より「プログラミングされた本能」だと思うので、それが愛なのかどうかは人間以外になってみないとわかりません。カマキリの交尾からオスの最期までをたまたま観察したことがありますが、壮絶過ぎて感動すら覚えました。メスがオスをしっかりホールドして、パーツをもぎとって時間をかけて食べて行くんですよね。あれはもう愛とか本能ではなく「情念」という言葉しか思い浮かびませんでしたもの。すべてのメスの中にあの情念はプログラミングされているのだろうか。そんなことまで考えてしまったり。

それはいいとして。
愛って便利な言葉ですよね。

私の愛車ルーテシアは、先月末で3周年を迎えました。距離にして37,000kmを共に走ったことになります。私の愛車への気持ちは多分「愛」と呼んでも差し支えないかもしれません。正確にはどちらかと言うと「情熱」のほうが近いかな。でも、心から愛しいと思う。とても大切で、失ったら生きていけなくて、毎日いちゃいちゃしたい。いつだって私の心の中の大きなスペースを占めている存在です。

有島武郎は「惜みなく愛は奪う」という作品を執筆していますが、私には「愛は与えるもの」というより「愛は奪うもの、または奪われるもの」という表現のほうがしっくりきます。ルーテシアへの愛も、私が愛を与えているのではなく、ルーテシアが私から愛を奪っている、そんな感じなのです。抗えない!

ルーテシアのコンセプトはLOVEということですが、あながち間違ってはいないかも。私からLOVEを根こそぎ奪っていくクルマなのですから。そして、愛を奪われる幸せをもたらしてくれるのです。

愛は4年で終わる説が適用されるのかどうかは誰にもわかりませんが、私自身はこの先も愛を奪われ続けるような予感がします。どんなに自分にとって最高のパートナーがいても、道ですれ違う素敵な人に目を奪われたり、妄想したりするのと同じで「古いスープラかっこいい」とかまた言い出すこともあると思います。別の相手とデートすることもあります。でも、人間なら4年どころか3日で終わる愛もあるなか、私がこれだけ「愛しい」と感じる気持ちを持ち続けられるのは相手が工業製品だからかもしれません。

もうひとつ忘れてはならないのは、ルーテシアが連れて来てくれた出会い。こう書くと陳腐ですけど、人や場所、たくさんの新しい出会いです。人見知りで狭い世界上等な私でも、外へ出てみたら意外と心地よかったという驚き。色々な人に出会うってことは、時に勇気づけられたり救われたりするものです。違う考えや価値観に触れることによって、あるいは自分には縁のなかった世界に触れることによって、「私の悩みってくだらない」とか思えたりする。

ルーテシアじゃなかったら、そういう経験は出来ないままだったかもしれない。

だから、愛は奪われてもじゅうぶん過ぎるくらいお釣りが来る。私の愛車との日々は、そういう感じです。そして、3年たって改めて思います。私はルーテシアに乗っている私が好きだ。そう感じられる間は、きっと愛は冷めないのではないか、と思っています。