ひとり映画祭

腰のほうは何とか日常生活を送れるくらいまでには回復したが、天気のせいか能動的に何かやる気が起きない。こんな時は受動的に楽しめる活動が一番。

ということで、そういう時のAmazonプライム。

今回は、観ると深く考え込んでしまうとわかっている是枝裕和監督作品をいくつか集中鑑賞。再見もあり。観賞後に絶対に晴れやかな気持ちにならないとわかっているので、観る時を選ぶ作品群だ。

是枝監督と言えば、監督デビュー作の『幻の光』は、私の中で邦画ベスト3に入る地位を長年保っている作品。カンヌの主演男優賞を柳楽くんが最年少で獲った『誰も知らない』は映画館で観て以来、観ていない。なぜなら、辛すぎるから。大好きだけど、もう一度観る勇気が出ない。実はDVDも持ってるんだけど、観ていない。

『万引き家族』はついにカンヌのパルムドールを獲った作品なので観た人も多いだろう。『誰も知らない』もそうなのだけど、社会の基準からすれば歪んだ家族であっても、そこには愛情とささやかな幸せがあり、そこが是枝監督の描く家族の恐ろしさだと私は思っている。正義感の強い人ほど不愉快になるんじゃないだろうか。
『そして父になる』も、血の繋がりとは何なのか、家族とは何なのかを突きつけられる。でも、発端は事件だったにせよ、わりとアメリカチックな展開ではあった。『海街diary』は是枝作品には珍しくライトな感覚で観られる美しい映画と見せかけて、私が生まれ、人生の4分の3を過ごした鎌倉が舞台であること(劇中のシーンがどこだかわかってしまうくらいに)、異母妹のすずがあまりに過酷な状況に置かれていることで、やっぱり重い。音楽は菅野よう子で、テーマ曲は優しい気持ちになれる効果がある。マーラーの交響曲第5番4楽章アダージェットに似ている。

今日鑑賞した『三度目の殺人』は、一言で言うと法廷劇。
是枝監督の法廷劇なので、通常の定番である白黒の決着はないと予想していたが(一応、法廷での決着は出る)、やっぱりなかった。結局何ひとつはっきりしない。だから、一件落着の爽快感を求める人には絶対に向かない作品だ。

昨今の自殺のニュースや、悲惨な事件が起こるたびに、色々な人が色々なことを言う。専門家から一般人、近所の人まで。私たちもそれぞれに感想や意見を持つ。でも、そこには多分何の意味もない。自分の思いに相手をはめ込んでるだけではないか。クルマの運転をしていてもそうだ。いわゆる「だろう運転」というやつで、意識せずとも自分に都合のいいように判断している場合が多い。

でも、そのことは悪いことではなく当たり前のことのような気がする。だって、自分は自分のことしかわからないから。いや、自分のことだってわからないのに、他人のことなんてもっとわからない。近しい人のことだって、勝手にわかった気になっているだけかもしれない。だから、ニュースで「自殺するような兆候なんてなかった」とか、「あんなことをする人には見えなかった」とか、そういうコメントを聞くたびに「当たり前だろう」と思う。真実はその人の中にしかない。その人の中にもないかもしれない・・・・この作品で、改めてそう感じた。法廷ですら真実は語られないのだ。

誰もがストーリーを作りたがる。そのほうが納得がいくし安心するから。でも、ストーリーが無いことが真実かもしれないじゃないか。答えなんてないことが真実かもしれないじゃないか。そんな居心地の悪さを感じた作品。良い意味で。

福山は役者として好きじゃないが、この作品では相手が役所広司なので、それに引っ張られて見苦しくない芝居をしている。そしてまた広瀬すずの役が重い。『海街diary』でも、自分を受け入れてくれているお姉ちゃんたちから父親を奪ったのは自分の母親で、その母も父も死んでしまったという辛すぎる役だった。音楽はイタリアの作曲家エイナウディ。数年前にフランスでヒットした『最強のふたり』の音楽を手掛けた人だ。疾走するマセラッティにこの人のピアノが良く合っていた。

私がこれまで観てきた是枝作品は、明確な答えを示さない。
だから、気楽に観られる作品ではないのだけれど、不思議と前向きになれる時もある。それは、ほんのわずかでも希望がすーっと表現されているからかもしれない。ただ、この『三度目の殺人』はそれもない。容赦なし。そのタイトルの意味を理解した時、やっぱり「どうして?」と考えてしまうのだ。

『幻の光』の主人公は、自分の夫がなぜ線路の上を歩いていたのか、電車が来ても進行方向に向かって振り返らず歩き続けていたのか、そしてなぜ死んだのか、「引き止められなかった自分」を消化出来ずに苦しみ続ける。新しい場所で、新しい夫、新しい生活がいくら幸せでも。でも、答えは永遠に出ない。答えは永遠に出ないということが答えだと気づくまでに、当事者は苦しみ抜く。

家族でもカップルでも友人同士でも、「相手のことを完全に理解する」ということを私は信じていない。理解したと思うのはむしろ危険だと思っている。理解することよりも、受け入れて、ただ愛せばいい。そのほうが大切なのではないか。

私の元夫は、私と離婚してしばらくした後に再婚した。離婚して以来、顔を合わせたことはなかったし、ずっと遠くで生活していたようだ。私と離婚して十数年後、彼は死んだ。私はそのことすら知らず、彼が亡くなってから数年後に戸籍がきっかけで初めてそれを知った。

どうして?
理由を知りたかった時期もあったが、知ったところでもうどうにもならない、という結論に到るまで時間はかかった。真実は本人にしかわからない。生きていくのに疲れてしまった、という理由の他には。ずっと若い頃に数年間家族だった人ではあるが、別れてからの時間のほうがずっと長い。リアルに思い出すには時間が経ち過ぎているし、その間も父、祖母、叔母たち、当時の職場の上司などを見送ってきた。彼は、私にとって「いなくなってしまった人たち」の中の1人。

でも、今でもワインレッドのスープラを見ると少し泣きたくなる。
もう滅多に走ってないけど。