化粧直しの憂鬱

東京事変の『化粧直し』は、私の「泣き歌プレイリスト」にもしっかり入っている(しかしベスト・オブ・泣き歌は事変ならば『落日』だろう)。

先日、友人と「若い頃の選択肢」について議論していた。つまり、「あの時にあれを選択していれば今の人生まったく違ったかも」という、ありがちなただの傷の舐め合いだったのだが、その中の選択肢の中のひとつにメイクアップアーティストというのが少しだけあった。

贔屓にしているブランドのカウンターに行って、ズラリと並ぶ色の洪水を前にすると血が騒ぐのを通り越して滾ってくる。画材屋さんで絵具を眺めているのとまったく同じ気分になる。顔をキャンバス だと思えば、似たようなことをしているのだ。下地を塗って色をのせたり線を描いたりするのは一緒。見た目と実際に塗った色が同じじゃないのも一緒だ。違うのは平面が立体か、ということか。

こちらは顔用の筆。全部いっぺんに使うわけではない。

 

こちらは絵を描く用の筆。

 

私はけっこう人の顔をいじるのも好きだったりする。街でも「ああ、惜しい。もうちょっとこうすれば見違えるのに!」と他人様に対してまったく余計なお世話な提案を心の内でやっている。

しかし自分自身はどうだろう。
年末年始休みの間、引きこもっていたおかげで友人たちの顔などをパラパラとスケッチしていたりした。私たちの顔は多くの場合、左右非対称だ。縦半分を隠すと、左と右でまったく違う印象になる顔だってある。

私の顔も左右でだいぶ違う。簡単に言うと右半分が派手で左半分が地味だ。右の顔のほうの筋肉が発達しているのだろう。右利きなことも関係しているかもしれない。そこで許せないのは左右対称に眉が作れないことだ。

上段は、普段、私自身が鏡で見ている自分の顔(虚像=肌補正アプリで撮影)。
下段は、普段、私以外の人が見ている自分の顔だ(実像=普通にスマホのカメラで撮影)。よって、自分でも下段の顔は見慣れない。

鏡に向かって化粧をしても、実際に私以外の人には反転して見えるという複雑な事実。そのせいでバランス調整していくうちに私の眉はどんどん細くなり・・・大惨事になっている。鏡で見て左右対象に作ったように思えても、こうして画像になると一目瞭然、左右でまったく違うのだった。若い頃よりもそれが顕著だ。重力に逆らえなくなってきたからだろう・・・

と、落ち込んでばかりもいられない。

男性諸君にはまったく役に立たない話だが、私が贔屓にしている化粧品ブランドは基本的に2つあり、シュウウエムラとNARSだ。前者は常にモデルがアジア人でイメージが掴みやすく、後者は肌の色によってサンプル画像が分けられており、日本語サイトのよく意味のわからない説明も好きだし、何しろ無難な色を見つけるほうが難しいところが気に入っている。自分の顔に絶望すると、これらのサイトをぐるぐる回って新しい救済を探す。そして気づくとカウンターの前に立っていたり、注文ボタンをクリックしていたりする。

純粋に、化粧するのは楽しいこと。色々な制約がつくが、それでも自分の顔の上で文字通り色々描いたり塗ったりするのはとても楽しい。だから、人の顔をどうにかするのも好きだし、若い頃にメイクアップアーティストの選択をしなかった私は今になっても、やっぱり紙の上に人の顔を描いている。今以上に老いぼれてもきっと描いているに違いない。自分の顔と、人の顔を。