美しい私の友人たち

長年、私の髪を担当してくれている美容師さんがいる。30歳をちょっと過ぎたくらいのお兄ちゃんなのだが、先日、キックボクシングで初試合を迎えた。

彼は数年前、「特に趣味とかってないんですよねー」と話していた。その後、職場の先輩に誘われて運動不足解消のためにキックボクシングを始めたら、ハマったのだ。それが2年前くらいで、みるみるうちに体つきが変化し、Tシャツがパツパツに着こなせるほどガタイが良くなった。

そんな彼が初めて試合をしている動画を見せてもらった。
1ラウンド目で攻撃しまくり、2ラウンド目であっさり体力が尽きて敗退した。しかし、躍動する彼の姿は小さな画面の中でも眩しく、客である私ですら誇らしかった。そして、とても嬉しかった。何より、彼が「めっちゃ緊張しましたけど、すげー楽しかったですよ!!」と話していたことが私を幸せにしてくれた。次の試合を目指すそうだ。

先日、授業のために奈良へ出向いた。
いくつかのメジャーなお寺を巡り、メジャーな仏様たちに会い、講師の説明を聞きながらその歴史や造形を学ぶ内容だ。正直、仏像に関しては止利、定朝、運慶快慶くらいしか知らないし、誰でも知ってる教科書に出てくるような有名仏しかわからないし、仏教美術にはさりとて興味もなく、単位取得の目的だけで参加した(仏画には関心があるが、奈良時代にはほとんどない)。
しかし、仏像が好きな人にはたまらない授業らしく、目を輝かせて仏様に吸い寄せられていく人々を見ていたら、幸せな気持ちになった。

自分自身が好きなことをしている時はもちろん幸せなのだが、友人たちが彼ら彼女らの好きなことをしている姿を見ても幸せになれる。

クルマを走らせている時やメンテナンスしている時はもちろん、サーフィン、バンド、遺産巡り、旅、写真、絵画・・・それぞれの好きなことをやっている時の姿は、神々しい。

私の年代になれば、多かれ少なかれ人生において背負っているものがある。過去が長くなるにつれ、記憶から消し去りたい出来事もあったし、今の仕事に満足しているわけでもない。起床して仕事して帰宅して家事して寝て、と、単調な日常だけを送ることも出来るが、それ以外の世界を持っている人はクリエイティブに生きられる。リベラルアーツここにあり、という感じすらする。

友人たちがそれぞれのディープな世界を話す時、それが自分に縁のない世界であっても楽しい。好きなことを話す彼ら彼女らの顔は生命力に溢れ、それを眺めている私もいい気持ちになる。だから、愚痴や悪口で溢れた食事や飲み会は遠慮したい。

例外もある。
表向き「好きなこと、熱中していること」のように語られても、それがSNS映えを意識していたり、中身が不足しているように感じると興ざめする場合もある。好きなことに関することは一生かかっても全貌を把握することだって稀だ。学ぼうとしていない人は明らかに浅い。浅いのは中身だけでなく、その全身から発する空気もまたチープだ。学んでいる人は自分がまだまだ無知だと自覚しているから、完成していない。未完成は美しい。理想的なのはサグラダファミリアのように、未完成なのに修復が始まるスタイル。過去に学んだこともアップデートしつつ、白紙の部分も埋めていけたらいい。

私の友達の数は多くはないが、皆、それぞれが「日常という家」の中に、自分だけの小さな「アトリエ」を持っている。そんな友人たちを尊敬しているし、彼ら彼女らを美しいと思っている。