クルマで巡らない東京都写真美術館

クルマで巡らない美術館第12回は、東京都写真美術館(東京都目黒区)です。

 

 

写真専門の美術館

山種美術館から南下して恵比寿駅を通過し、恵比寿ガーデンプレイス方面へ。
たまに映画観に来たり、敷地内のウェスティンホテルに何度か泊まりに来たこともあり、馴染みのある場所っちゃ場所なんですけどいかんせん中途半端感があって。
高層階のレストランからの眺めは素晴らしいですけれどね。

そんな場所にある東京都写真美術館。
いきなりドアノーの有名なあの写真がお出迎え。ドアノーはルノーの工場で写真を撮っていたこともあるので、また勝手に親近感。

 

誰でも一度は目にしたことのあるだろう「市庁舎前のキス」

 

その隣にはキャパのこれまた有名な「ちょっとピンぼけ」なノルマンディー上陸作戦の写真の大引き伸ばしが。
気分が上がってきますね。

お目当は最終日が迫ったアラーキーこと荒木経惟個展「センチメンタルな旅 1971ー2017ー」。

何を隠そう、私が10代の頃、初めて買ったアラーキーの写真集が「センチメンタルな旅 冬の旅」だったんです。なので、今回の展示はそんなン十年前から何度も眺めている写真たちを生で観られる貴重なチャンス。

 

すっかり色あせてしまったマイファーストアラーキー

アラーキーに泣く

展覧会で涙が溢れたのは久しぶりです。

90年に癌で亡くなられた愛妻・陽子さんとの出会いから始まるこの展覧会、なんかもう色々なものが詰まり過ぎていて泣けてくるんです。
勤めていた電通で出会った2人。女子社員の集合写真で、こちらを不機嫌な表情で見つめる女性が陽子さんでした。美人ではないのに、年齢を重ねるとともに美しく変化していきます。写真の中の笑顔も増えていき。ボリュームのないアンバランスだった体のラインも、お肉がつき始めるとぐっと色っぽく。女性の素敵な変化を見せつけられると同時に、結局アラーキーは強がっていたんじゃないの?なんて切なくなったり。70年代の東京や京都の街並み、人々。私の知らない時代の街。時代は移り平成になり、陽子さんの遺体を乗せて火葬場に向かう車列、ひとり帰宅したアラーキーが写す洗濯機やきちんと整頓されたベッド。写真集でもじゅうぶん重いのですが、こうして生で見るとさらにどーんときます。

料理のカラー写真もありました。料理自体は陽子さんの作った家庭料理なのですが、お食事をインスタにアップする皆さんはこういう写真を撮って欲しい!!と思わずにはいられないアラーキーの撮影手法。料理が生きてる。発散している。生々しい。

愛しい人を失っても、世の中は同じように流れていく。空の色も雲の変化も止まらない。たったひとつの事実は、もう愛しい人は存在しない、ってこと。奥さん亡き後、アラーキーは自宅のバルコニーから空ばかり撮っていたそうです。
この重さと悲しさ、寂しさがモノクロームの画像からこれでもかってほど流れてきます。でも、決して暗くないのはベースに幸せがあるからかもしれません。安っぽくて陳腐な言葉ですが、そこには確かに「愛」を、他人の私でも感じるからです。

私がこの写真集を手に取った頃は、大切な誰かを失う悲しみなんて想像するしかなかったのですが、時がたち年を重ねると、当時は感じられなかったことがぐっと深く感じられたりするもんです。そんなわけで、不覚にも涙があふれ。だからアラーキーの作品は観るのをやめられない。いつも想定外の自分を引っ張り出してくれるから。ご本人が「写狂老人A」としてまだまだお盛んですから、この先もとても楽しみにしています。

動画より静止画

私は動画よりも静止画のほうが心を動かされることが多いです。
写真は、よくある言い方かもしれませんが「一瞬を切り取る、そして永遠にその一瞬がそこに残る」もの。その時、確かにそこに存在した人や空気、街、建物etc。だから、写真展を見る時は、絵画や映画にはない覚悟みたいなものを準備する必要があります。どういう方面から私の感情に切り込んでくるかわからない魅力。美しい写真がいいかと言えばそうではない。そこに「撮る人」の存在も感じられる写真が好きです。何を感じてシャッターを押したのか。これが伝わる写真は記憶に残ります。その思いが私を泣かせたり笑わせたり考え込ませたりするんです。そういう写真にこの先もたくさん出会いたいと思った時間でした。