クルマで巡らない森山大道の東京ongoing

昨年の9月は、1年後このような世の中の状況になるなどとは少しも想像していなかった。昨年にアナウンスされた展覧会のうち、中止になったものも多い。その中で『最も行きたい展覧会』ベスト3に入っていた森山大道様の個展にやっとの思いで辿り着いた。場所は恵比寿の東京都写真美術館にて。

恵比寿までは湘南新宿ラインで乗り換え無し(たまに恵比寿を通過するのもある)。恵比寿駅からは動く歩道を利用しつつ結構歩く。恵比寿ガーデンプレイスって実はあまり好きじゃない。時々ガーデンシネマでは良い映画をやっていたりもするけど、敷地内にあるウエスティンホテルもタワー棟にある夜景の美しいレストランも、正直イヤな思い出しかない。三越も中途半端過ぎてわざわざ行く必要もないし、中央に位置する広場は子供たちの無法地帯と化している。帰りに通った駅へ向かう地下エリアは、空っぽの店舗が目についた。

おなじみロバート・キャパのノルマンディ上陸作戦がお出迎え。
向こうに見えるのはドアノーの市庁舎前のキス。この人はルノーをクビになった過去がある。

入り口で消毒と検温。
個展エリアへ入るとさすが森山大道、思った以上に人が多い。しかしほとんどがお一人様のようだ。静かに作品に見入っている。本格的な写真愛好家の人にはたまらない展示なのだろう。

10代の頃に受講した写真教室で、ご本人にお会いしたことがある。当時から彼の作品の質感、つまりコントラストが強く荒い画面が大好きだった。それは今も変わらない。つまり私はただのファンだ。

今回のお気に入りの1枚。

彼のファインダーを通して見る東京が好きだ。そこに集う人々の日常は私たちが普段目にしているようで実は見えていないものばかりで、私たちもその中に棲息しているように感じる。画面の中には少しもセンチメンタリズムはない。感情移入とか魂が揺さぶられるというのとは違う。「写真とは何か」というシンプルで難解な問いの答えを見ているような気がする。写真を学んだ人や写真愛好家ならうまく言葉に出来るのだろうけど、私には無理だ。

絵を学び始めてから、写真に対する見方、感じ方も変わって来た。
写真は容赦ない。だから、モティーフが何であろうと、写真に囲まれた空間に立っていると逃げ出したくなる。それゆえなのか、絵を描き始めてから写真はめっきり撮らなくなった。スマホでメモ的に撮る以外は。つまりファインダー越しには撮らなくなった。恐ろしくて。

都市の中に存在する人々は、他者でもあり自分でもある。
それぞれに人生があり、それぞれに言葉があり、それぞれに思考がある。生まれた場所、故郷、家族、友人、恋人、過去、現在、死にゆく場所。

こんなことを考えるのは、今の私がそんなことを考えているからに他ならない。過去に持った怒りのエネルギーは、果たして死ぬまで抱えて生きていかなければならないのか、とか。許すことと忘れることは同じなのか、とか。私は誰を許して誰を許していないのか、とか。過去の私と今の私では何が変わって何が変わっていないのか、何を失って何を得たか、とか・・・

森山氏の作品を見たら何かヒントがもらえるんじゃないか。そんな甘い考えで出かけたけれど、ヒントどころかますます悩みは深くなった。

網タイツをクローズアップした作品を見たら、網タイツを好んで履いていた若き日の自分を思い出した。ああ、これも自分が失ったもののひとつなのだ、と思ったり。

右の図録はサイン入り!!宝物がまた増えた

森山氏の個展は3階にて鑑賞、続いて2階で開催されている『あしたのひかり』という新進作家たちの作品を鑑賞。こちらも良かった。やっぱり、写真は容赦ない。現実をありのままに写すからじゃない。現実が夢のように美しかったり、地獄のように残酷だったりするから。人間の眼がカメラという装置を通して切り取る世界は、素晴らしいと同時に深い闇でもあると改めて感じた。ホントに辛い。

ところで最近、天の啓示を得た。
来年度からいよいよ卒業制作に手をつけることになる。前半は40号サイズ、後半は100号サイズの作品を描くことになる。これまでは伝承や民話からモティーフを選ぼうと漠然と考えていた。雪おんなとか道成寺とか。そもそも絵巻の模写をしようというのが最初のプランだったのだから。しかし先日バスに揺られながら上のほうに書いた内省的な問題(過去の怒り云々)のことをぼんやりダラダラ考えていたところ、突然、頭の中に声が聞こえた。その声は「卒業制作は自画像を描く」と言った。言い切った。

きっと今の私に必要なことなのだろう。