実用的?非実用的?

カングーは実用的

カングーと言えば、日本ではルノーの看板的クルマです。本国では「働くクルマ」ですね。

「最強のふたり」(2011年 フランス)でも、障がい者フィリップの移動のために使われる「実用車」として登場してきます。しかし、主人公ドリスはそれを良しとしません。

いいじゃんカングー、とも思いますけど、お隣と比べちゃったらね

 

「こんな馬を運ぶようなのに乗せられるかよ」と言い放ち、隣に停めてある「実用的じゃない」クルマを選びます。

 

パラグライダー事故で全身が麻痺しているフィリップ

日本でも大ヒットしたのでご覧になった方も多い映画ではないかと思います。
主演のオマール・シーは「黒人のイケメンとはこういう顔のことを言うのだ」と私を感動させた美しさの持ち主。なかなかここまで造形美のある顔をした男性は見かけません。彼がブラックスーツを纏った姿はもう鼻血出そうなくらいカッコいい!

そして何よりこの映画を私がとても好きな理由は、ひとつは映像と音楽が素晴らしくスタイリッシュであること。ショパン、ワーグナーなどのクラシックから、印象的な使われ方をしているアースウインド&ファイアー、そして私がもっとも好きなのはパラグライダーのシーンで使用されているニーナ・シモン。

もうひとつは、芸術好きなら心がほっこりするシーンがいくつかあること。
雇用主であるフィリップの絵画の買い付けに同行したドリスが、その作品を観て「こんなのに3万ユーロ?こんなの材料があればオレにだって描けるぜ」というシーン(多分観客も彼に同調するはず)、その言葉通りドリスは絵を描き始めるのですが、そればかりではなく芸術に関してもいつの間にか詳しくなっているんですね。映画の最後で運送会社の面接に訪れた彼が、面接室に飾ってある絵に気づいて「ダリだね。絵は好き?」と面接官の女性に話すシーンがそれを象徴しています。ワーグナーのオペラで木の恰好をした歌手が歌いあげているのを観て大笑いするとか(私も笑いました。オペラが苦手なのはこういう演出が多いからです)、ヴィヴァルディの「春」はパリの職業紹介所のBGMだとか、とにかく愉快。時に芸術に造詣の深い人たちの薀蓄はついていけないことも多々あって「だから何?」と言いたくなることも多いのですが、フィリップはドリスの素直な感性を喜んでいるところがまた素晴らしいんです。スラム街育ちのドリスはそれまで縁の無かった教養・知識をも身に着け、政治ネタまで持ち出せるようになっていきます。私はこのあたりに一番心を突き動かされました。

ドリスはフィリップに遠慮なくブラックジョークを飛ばします。これまで周囲から腫物に触るように接しられてきたフィリップは、ドリスの「容赦の無さ」がいいんだ、と言います。

さてクルマに話を戻すと、実用的なカングーを使わずにドリスが選んだのは、こちらのクルマ。どうやらフィリップが車椅子生活になってからは出番がなかった模様。2人で乗り込みアクセルをふかして「すげー!」「いいだろ?」と会話を交わすところは、クルマ好きならにやけてしまうシーン。

Fugupediaによればマセラッティ クアトロポルテ(本国風の発音だとマゼラーティ)。映画の中でも、痺れるイイ音してます!

いやー、こっちを選ぶよねそりゃ。車いすは折りたたんでトランクへ。フィリップはドリスが抱えて助手席へ。手間さえ惜しまなければ「非実用的」とされるクルマだって問題ないのです。このマセラーティがフランスの田園の中を駆け抜けるシーンの美しさと言ったら!!一方で、映画の中ではドリスが家族に会いに行くのに、1人でカングーを運転しているシーンも出てきます。

利便性と嗜好は相容れないのだろうか?という永遠の課題は何もクルマだけに限ったことではありません。「デザインは素敵だけど使いにくそう」「カッコいいけど実用的じゃない」「便利だけど見た目がイマイチ」そういったモノがゴロゴロしてますよね。そこで、どちらを優先させるかは個人の考え方次第。私は間違いなく嗜好を優先させるタイプです。でも、きっと多くの人が間を取るのではないでしょうか。どちらかを妥協して、あるいは両方とも妥協して。

人生は「選択」の連続です。誰もが無意識のうちに選択を繰り返していますが、「習慣」や「なりゆき」で選んでいるものの何と多いことか。その枠をはみ出して違う選択をすることは確かに勇気の必要なことではあるけれど、この映画は「ちょっと違うことをやってみようかな」という気にさせてくれます。

 


こんな気分にこの映画。

フランスの風景を堪能したい時
速いクルマで憂さ晴らししたい気分になった時
人との接し方に悩んだ時