東京と樹海

これまでまともに観たことがなかった小津安二郎作品。欧米の映画監督たちのお気に入りであるOZUの作品とはどこがスゴイのか、という点と、尾道が出て来ると聞いてレンタル料400円を払い、視聴した。

 

「東京物語」 監督 小津安二郎 昭和28年(1953年)

ストーリーはシンプルで、尾道に住まう老夫婦が、独立した子供たちを訪問しに東京へ出てきて、数日滞在した後、尾道に帰る、という流れ。
でも仕事を持つ子供たちはそれぞれ忙しく、一応もてなそうとはしてくれるのだが、ちょっと冷たい。挙句の果てには「熱海でゆっくりしてきたら?」と放り出されたり。そんな中、戦死した次男のお嫁さんだけが色々と世話を焼いてくれる。

この時代において、すでに「家族だから当たり前」とか「血が繋がっているから立派に家族」という古来の考え方が崩れつつあることを示唆している。現代を生きる私にとっては「血の繋がり=家族」とは限らないというのが常識なので、あまり新鮮さは感じられない。「まあ、そうだよね」という感じ。

そんな筋書きを淡々と、非常にゆっくり時間をかけて描写。おまけに主人公の笠智衆さんのセリフがほとんど「やあ」で、こりゃ途中で寝落ちするかもと最初は覚悟した。

しかし見続けていると、とても写真的な映画なのだと思い始めた。人の動きも、低めのモノ(家具類、調度類、小物類など)越しに捉える構図。そして固定カメラのせいかもしれないが、動いているものを観ている気がしない。だから、どのシーンで一時停止をしても、写真として完成されている、そんな不思議な映画であった。鑑賞者はずっと傍観者で、入りこむ隙はない。

瓦屋根が尾道水道へと続く景観は、今では瓦屋根が少なくなっているだろう。それでもモノクロによく似合う美しさで、ときめいた。
東京のシーンでは、東京駅の描写が印象深い。「3等」と書かれた札が立つ長椅子に座って出発を待つのだが、みんな普通に煙草を吸っている(うらやましい)。映画の中では夜行で、確か東海道線廣島行と掲示されていた。新幹線の前身はこうだったのね。

それから、美しい日本語。「行ってきます」ではなく「行って参ります」。そして長女のしげが話すチャキチャキした日本語は江戸のテンポで耳に心地いい。

戦後10年たたない頃の日本人の生活。洋装で仕事をする人々も寝る時は浴衣だったり、老夫婦が泊まる熱海の旅館の隣の部屋では、若者たちが一晩中麻雀に明け暮れていたり。女たちはハタキを片手に掃除をして・・・物語自体は特にどうとも思わなかったけれど、画面や当時の風俗描写は大変興味深かった。そんな映画。

 

もうひとつ、日本を舞台にした映画を。

以前、映画館で予告編を見て興味を惹かれたものの、その後すっかり忘れており、この度アマプラで見る機会を得られた映画について記しておきたい。

「追憶の森」 The sea of trees  監督 ガス・ヴァン・サント 2015年 アメリカ

あたたかな涙はあふれなかったケド

失意の主人公アーサー(マシュー・マコノヒー)は、自殺するために来日し、青木ヶ原樹海へ入る。さあ死のうと行動に移そうとしたところに、謎の日本人、タクミ(渡辺謙)が現れる。2人は樹海をさまよい、時にはサヴァイヴァルし、言葉少なに語り合う。樹海シーンの合間に、アーサーがなぜ自殺願望を持ったのかが描かれる。妻ジョーン(ナオミ・ワッツ)との生活が回想されていき・・・

日本人ならば途中で最後のオチが容易にわかってしまうのが興ざめではあるが、樹海というか森の恐ろしさと美しさは画面からじゅうぶんに伝わってきた。音楽も必要最低限であり、マコノヒーもケンワタナベも絵面が渋いので、映像はとても詩的だ。

しかし、結局のところ「大事な人を普段から大事にしましょう、何かあってからでは遅いのですよ」という普遍的な主題に落ち着いてしまった感があって残念。ネチネチトゲトゲした夫婦喧嘩を繰り返すアーサーとジョーンの夫婦像こそが真実で、愛の形なのだと私は思った。

「愛し合う」って言葉はなんか胡散臭くて私は好きじゃないのだけど、そこからイメージするものって暖かくてラブリーな感じがすることが多い。穏やかで静かに手を握っているような。でも、ぶつかり合って罵り合って最後は酒に逃げるような関係も、「愛し合って」いるのだと思う。よく言われることだけど、こと男女関係は相手のことを嫌いだと思っているうちはまだ感情があり、本当に相手のことがどうでもよくなると、無関心になる。怒りすら湧いてこなくなるから。好きと嫌いは紙一重。

だから、この映画で私にとって一番の魅力は樹海やらスピリチュアルやらではなく、夫婦喧嘩のシーン。それ以外は色々と消化不良な映画であった。あまりお薦めしない。

上記2作の共通点は、妻が死ぬという点と、妻が死んでから「もっと優しくすればよかった」と夫が後悔する点。相手が妻であれ、親であれ、子供であれ、友人であれ、自分と浅くはない関係を持った人々の死に対して我々が後悔する理由としては、「もっと~してあげればよかった」というのは多いのではなかろうか。私にもそう思った時期があった。それをしなかった自分を責めてしまう。でも・・・その結果は永遠にわからない。いなくなった人は案外幸福だったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない。

 

話はOZUに戻り。

戦死した次男の嫁、紀子役の原節子さんは初めて長時間その佇まいを拝見したが、銀幕スターってこういうことなのね!というのはよくわかった。西欧風のクッキリ顔立ちが美の基準であった時代なのだろうか。確かに存在するだけで画面に華が生まれる。彼女が劇中で働く会社はタイヤ屋さんのようであったが・・・事務室にあんな華やかな女性が働いていたら、周囲の男性は落ち着かないだろう。

あんたはいい人だね、という義父に対し、そんなことはない、罪の意識がある、と答える紀子。「私、もうショウジさんのこと、思い出さない時のほうが多いんです。丸一日、思い出さない日もあります」と正直に打ち明ける。そーだよねそーだよね、と頷いてしまった。人は自分の「今」を生きるのに精いっぱい。いなくなった人たちのことは、忘れると言うより、緩やかに自分の記憶の土に馴染んでいき、同じ色になる。音楽や場所や匂いがトリガーとなって、時々そこだけにスポットライトが当たって泣いてしまうこともあるんだけれど。

その繰り返しで、いなくなった人たちの記憶と共に私たちは生きている。そんなことを思って鑑賞を終えた。