出来ることが目的じゃない

以前、水墨画を主題とした小説の話を書いたが(こちら)、それが漫画になっていた。

原作小説でも号泣したが、こちらの漫画も読むたびに涙腺が決壊する困った本だ。最近泣いた本は、このお話と、阿部清子さんの画集だけ。

何にそんなに泣けるのかと言うと、まず主人公の師である湖山先生のお言葉。例えば、
「出来ることが目的じゃないよ、やってみることが目的なんだ」とか。
それから、主人公の描く線が悲しい線だということ。上手くなればなるほど、悲しい、ひどい絵になっていく、というところ。胸の奥をきゅっと掴まれるような気持ちになる。絵のすごいところは、というか芸術全般に言えることなのだけど、何を描いても作り手自身が必ずそこに表れるところだと思っている。小説の主人公もそうだが、自分自身が持つ闇や悲しみ、弱さと逃げずに向き合い、孤独な闘いを乗り越えた人だけが持つストレートで乾いた強さを感じ取ると、無条件でひれ伏してしまう。なぜならそれは紛れもなく本物だから。

水墨画の巨匠を祖父に持つエリート絵師、ちあきちゃんが「私の絵には何が足りないのか」と悩むのだが、主人公がさらっと「足りないのではなく、あり過ぎるんじゃないのかな」と答えるところなどは、日本画にも通じてドキっとする。

「線は、僕を描く」と、阿部清子さんの画集「丸腰上等」に共通しているのは水墨だと、さっき初めて認識してハッとなった。

ところで水墨画は中国では国画と呼ばれており、正直、格調高く敷居も跨げないほどに高い。富士山どころかエベレスト級に高い。指導して頂いた日本人の水墨の先生方は皆、中国留学経験者で中国語ペラペーラだし。でも、敷居が高すぎて跨げないのは「学ぶ」前提の話である。
道具を揃え、いざ四君子描くぞ!と思って見よう見まねで描いてみても、描けるわけがない。先生が目の前で実演してくださっても、感嘆のため息が出るばかりでまったく参考に出来ない。そんな果てしなく遠く、難易度が高すぎる美しい絵画、それが水墨画。墨と水だけのシンプルさなのに、線の1本も満足に描くことが出来ない・・・

なのであるが。

 

もしこれから「なんか絵を描いてみたい」と思っている人に、私は水墨を薦める。これからは色鉛筆でも水彩画でもなく、水墨画。
女性または男性「ええと、ご趣味は?」
男性または女性「あー、水墨画を少し・・・」
カッコ良すぎだろう!

本格的に水墨をやろうと思ったらどこかの先生にきちんと入門するのがいいが、そうではないなら小学生の時のお習字セットを引っ張り出してくるだけでいい。そこに筆も墨も硯もあるはずだ。もうそんな古いものを持ってないなら手ごろな価格の硯と筆1本と墨(または墨汁)だけでいいし、描く紙もそこらへんのでいいし、描く対象だって何でもいい。何より墨の匂いを嗅いで恍惚となるだけでもいい(変態)。

ここで、超絶技巧の写実水墨画のご紹介。山口英紀さんの描いた東京。美術手帖より。
こんな水墨画の表現もある。やかましいはずの東京の街が、無音に感じる。そんな印象を私は受けた。

決まり事はたくさんある世界だが、自分で楽しむならそんなのは考えずに自由に楽しくやったらいいと思う。そこから先、どうやって発展させていくかは描く人次第。だんだんと「もうちょっと滲みの少ない紙のほうがいいな」とか、「柔らかめの筆が欲しいな」とか、考えるようになってくる。そして、自由に描くのには飽き足らず、巨匠の作品や伝統的な技法などに興味が出て来たらその時初めて「習う、学ぶ」ことを考えたらいいと思う。

昨年水墨画の授業を受けた時、中国人の大先生は「一番大切なのは、自由であること。それから、好きという気持ち。3番目に技術です」と仰った。私は3番目の技術から入ってしまい、盛大に躓いた。私には出来ない!無理だ!!と。
しかし今は、再び墨を使っての表現にトライしている。四君子ではなく、自分が描きたいもので練習している。そして、それがとても楽しい。先生の言葉は本当だったんだな、と感じている。

しかし自分で楽しんでやるのはすぐに限界が来るので、今年は昨年の続きとして、心新たに水墨画のクラスをきちんと受けたいと思っている。日本画の表現にも必ず役に立つから。そう、「出来ることが目的じゃない、やってみることが目的」の精神で。

とは言え・・・
最近、伝統的な日本画より現代美術のほうが合っている、と複数の人に言われて半分嬉しく半分がっかりな私なのであった・・・

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